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医局の歴史

金子 仁郎 教授
金子 仁郎 教授
(昭和24年3月~昭和31年7月)

昭和23年、金子仁郎講師発令され、奈良医学専門学校で精神医学の講義が開始。 翌24年3月、金子助教授発令。当大学の神経精神科学教室が誕生した。同時に外来診療、神経精神科定床10床をもって診療が開始された。昭和25年の精神衛生法を受け、昭和28年に医大病院の南側に県立橿原精神病院(50床)を設立、病院長を兼務した。同年12月には教授に昇進された。
この時期金子教授が医局員と共に在宅老人の調査を始め、昭和29年日本精神神経学会総会シンポジウム「老人の精神医学」にて発表、日本の老年精神医学の先駆けとなった。 昭和31年、金子教授は大阪大学教授へ転出された。
主な業績は、金子教授らによる「老人の心理」(「老人の精神障害」三浦百重編)など。

大沢 安秀 教授
大沢 安秀 教授
(昭和31年12月~昭和40年6月)

昭和31年12月、和歌山医大助教授より大沢安秀教授が着任。昭和32年には県立橿原精神病院が県立医科大学へ移管し、附属病院精神病棟となった。この頃より向精神薬療法が盛んに導入されるようになり、その臨床的薬理学的研究が盛んに行われた。
また、昭和34年には皇太子(今上天皇)御成婚の際に患者さんらが参列するなど、ライシャワー事件以前ののんびりとした病棟だった。
昭和40年、大沢教授は和歌山医大教授へ転出された。
主な業績は、視床下部下垂体系の神経分泌の電子顕微鏡的研究、向精神薬の臨床研究など。

有岡 巌 教授
有岡 巌 教授
(昭和40年7月~昭和54年1月)

教授就任と共に新病棟が計画され鉄筋コンクリート4階建(80床)が新築された。一般病棟での12床と合わせて100床近くの定床となった。
大海先生らの心身医学の研究や、浅尾先生らの生化学的な研究などと充実した診療と研究のもと教室は次第に発展していたが、昭和45年頃から始まる医局内紛争が昭和52年中頃には暴力事件をきっかけに大学紛争へと発展し教室の瓦解を見た。
この頃教室名が精神神経科と変わった。
当時の主な業績は、「学校恐怖症」(金原出版 有岡教授ら)、精神分裂病における血清クレアチニン・キナーゼなど。

井川 玄朗 教授
井川 玄朗 教授
(昭和54年2月~平成8年3月)

先時代から続いた紛争の中、昭和54年2月に助教授として着任され、同年12月に教授に昇任された。自ら「一つの出会いに一つの笑い」をモットーにして診療を続け教室の建て直しに尽力された。昭和56年には科名が精神科へ、教室名が精神医学教室へと変更になった。平成4年には老人疾患センターが病棟に併設され、生理学的研究や老年痴呆に関する研究、神経化学、水中毒の研究などが始まった。

岸本 年史 現教授
岸本 年史 教授
(平成8年4月~令和3年3月)

平成8年に岸本年史先生が教授に昇任され、令和3年までの長きにわたり教室を指導された。臨床・研究・人材育成の面において飛躍的に発展し、生化学的なアプローチや児童思春期、老年精神医学に関する研究などが加わった。平成12年4月には、飯田順三助教授が奈良県立医科大学附属看護短期大学部(平成16年4月より医学部看護学科)教授に昇進した。平成13年7月からは、奈良県精神科救急情報センターが附属病院内に設置された。平成16年4月には、岩坂英巳 講師が奈良教育大学教育臨床・児童精神医学教授として着任し、平成17年7月には、中村 祐 助教授が香川大学医学部精神神経医学教室の教授に就任、令和3年4月には太田 豊作 学内講師が奈良県立医科大学医学部看護学科教授に、令和3年11月には紀本 創兵 講師が和歌山県立医科大学神経精神医学教室教授に就任した。平成18年9月からは新病棟の精神医療センターが稼動しており、24時間態勢で患者を受け入れてきた。

岸本年史コラムはこちら(外部サイトリンク)

岡田 俊 教授
岡田 俊 教授
(令和5年11月~現在)

令和5年11月に、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所知的・発達障害研究部部長より岡田俊が精神医学講座教授として着任した。岡田は、京都大学、名古屋大学、精神科病院、他機関の勤務において、精神科救急、依存症治療、精神科リハビリテーション、児童精神医学、強度行動障害、精神保健福祉や児童福祉、教育などの諸機関における幅広い経験を持ち、奈良県立医科大学精神医学講座の使命に即した臨床・研究・人材育成ができるよう尽力する所存である。また、日本児童青年精神医学会の代表理事も務めており、サブスペシャルティの確立と児童精神科領域の人材育成の拠点となるよう努めたいと考えている。

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